書籍を楽しむ

「小説フランス革命15 粛清の嵐」、「小説フランス革命16 徳の政治」(以上2冊いずれも佐藤賢一著)、「死刑執行人サンソン」安達正勝著、「歴史を変えた気候大変動」ブライアン・フェイガン著をほぼ同タイミングで読了。それぞれ異なるジャンル、視点からフランス革命を描いている(「歴史を変えた気候大変動は、フランス革命を扱っているとは言い難いが…」が、そのおかげで当時の状況がかなり立体的に頭に浮かんできた(ように感じた)。これは新鮮で面白い体験。

The Code Book

「The Code Book」 by Simon Singhを読み終えました。最新の量子力学の考え方に基づいた、量子コンピューター、量子暗号の部分はぼんやりとしか理解できなかったけど、とて楽しく読み応えのある書籍でした。
ロゼッタストーンの解読は多分帰納的アプローチだと思うけど(最近の公開暗号鍵についてもしかり)、量子暗号といった部分になると、ベタ演繹的と言えるんでしょうかね?

「とことん帝国」vs「そこそこ共和国」

FBの「ともだち」のひとりが、「私は「そこそこ」ということが大嫌いだ」とアップしていた。何故そんなことをわざわざFBにアップしたのだろうか?何か嫌なことがあったのだろうと思うけど、多分「そこそこ」ということば、或いはそれに関する状態に対する一種の嫌悪感のようなものが元々あったのだろうとは思う。
そのアップに対し、「そこそこ」の反対語は何だろうね?と言う反応があった。反対語は「とことん」かな?と私は思う。
「そこそこ」がはびこる世界、「そこそこ共和国」なかなか悪くない響きだ。「とことん」はどうだろう?「とことん共和国」というのは形容矛盾のような気がする、「とことん帝国」の方が良いかな?いややっぱり「とことん村」ぐらいにしておいてほしい…

中央銀行は闘う−資本主義を救えるか

竹森俊平氏の「中央銀行は闘う−資本主義を救えるか」を再読中。
以下自分用の備忘録
流動性危機」と「経営破綻危機=財政破綻危機」の区別。前者は明らかに中央銀行が最後の貸し手として責任を持って対処すべき問題。後者は、金融機関とりわけ市中銀行が経営破綻に陥っているときには中央銀行が対処可能であるが、ギリシア危機のような場合には、問題の所在は金融機関ではないので、中央銀行が現状の法的枠組みの範囲内で、どこまで対処できるのか?
また、危機に対する処方箋として、資本輸入国と資本輸出国の場合では対応は異なる(大国vs小国という切口もある程度有効)。

谷崎潤一郎展

神奈川県立近代文学館の谷崎純一郎展が予想外に良かった。
最初の谷崎作品は自宅の本箱に置いてあった「鍵」、棟方志向のエキゾチックで妖しげな装丁に惹かれて手に取ったのだ。内容ももちろん妖しかった(当時の私は中学生)。その次に読んだ谷崎作品は何だろう、よく覚えていないが、高校時代には「吉野葛」を読んだように思う。「鍵」とは全く異なる作風、怪奇な面相の谷崎とは異なる明るく健康的な紀行文に驚いた。
細雪」を読んだのは時間がたっぷりあった大学時代だったと思う。絵画的な美しさにうっとりさせられた。とくに名古屋辺りでの蛍狩りのシーンが印象深い。
今回の谷崎純一郎展は、写真と自筆の筆跡が時系列的にたっぷりと展示されている。升目を丁寧に埋めた原稿の筆跡と、色紙や手紙ののびのびとした筆跡の対比が面白い。

米中国交回復

1972年のニクソン政権による米中国交回復時の衝撃(読売新聞の書きっぷり、テレビニュースの報道等)は、当時小学校高学年だった私にも記憶がしっかり残っている。子供心に日米は外交政策は常に歩調を合わせているものであると信じ込んでおり、このような大きな政策転換に際して、日米政府間で事前の情報交換がなされていないことにどうしても違和感があったのだー報道機関は知らなかったかもしれないけれども、政府首脳だけはちゃんと知っていたのだろうと信じていた。
だが、事実はそうではなかったらしい。孫崎亨氏の「戦後史の正体」によると、沖縄返還交渉の際の秘密協定として、核持ち込み問題と繊維問題があり、どうやら佐藤首相は繊維問題の密約を無視したらしいのだ。そのため、ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官の怒りを買い、これがこ米中国交回復交渉の存在を最後の最後まで米国側が日本側に秘密にしていたらしいのだ。さもありなん、政治家も人の子なのだ。
おまけに、議会対策でもたもたしていた米国よりも早く、田中・大平コンビは日中国交正常化を済ませてしまった。キッシンジャーは激怒したとのこと。面白すぎるエピソード、どこまで真実なのだろうか…?