「ダントン派の処刑」、小説フランス革命17、佐藤賢一

あまり面白いと思わないながら、だらだらとここまで読み進んできたこのシリーズ。多分この巻が一番面白く読めた気がする。処刑台に向かう馬車の上のダントンとでムーランの会話が良い、もちろんフィクションだと思うけど。いまさらながら「自由・平等・友愛(博愛)」について考えるきっかけともなり、友愛(博愛)はよりよい社会実現のためには実はとっても大切ではないかという気がしてきた。このフラタニティ、リスペクトに置き換えるともっと良いのではないかとも思う。

ティンカー

現在読んでいる「ティンカー」より以下抜粋。

生々しいまでの力強さ!

(quote)
そして、斧を薪に食い込ませながら、お前の胸の痛みや魂の混乱は、お前がまだ生きていて、まだ人間で、それに値するようなことは何もしてはいないものの、まだこの世の美に心が開かれているということなのだという事実で自分を慰めろ。胸の痛みが恨めしくなったら、思い出せ。どうせお前はやがて埋葬されることになるのだということを。
(unquote)

東京奇談集

この村上春樹作品を文庫本で読み返しているときに、自分自身にも少しばかり不思議なことが降りかかった。
コットンパンツをネットで購入し無事に配達されたのだけれども、その一週間後にまた全く同じ商品が配達されたのだ。二回目の配達の前日に出荷案内のメイルがあり、そのときには「あれっ変だな」とは思ったものの、多分出荷案内のミスで前週に配達されたものがシステム上の何らかのエラーで再送されたのだろうと特に気にしていなかったのだが、その翌日に商品が届いたのだ。さすがにこれは変だと思い(欲しくもない二本目のコットンパンツにクレジットカードでチャージされるのは看過できない)、過去のメイルボックスをチェックしてみたところ受注確認のメイルが一本見つかったので、それを参照して二本の出荷案内メイルの番号をネット業者に連絡した。自分としてはこれで一件落着で、後は不要な二本目のコットンパンツを返送すればお仕舞という気分でいたのだ。
ところが、ネット業者から帰ってきた返事によると、私は間違いなく同じ商品を二度購入手続きをしており、二回ともクレジットカード情報がインプットされているので、システム上のミスは考えられないとのこと。私はキツネにつままれたような気分になり、記憶を辿ってみたがどうしても二度も同じ商品を購入した記憶が無い。私は一人暮らしなので、別の家族が私に成りすまし同じ注文をすることは無い。ネット業者には簡単に事情を説明して、念のためにシステム上のエラーその他の可能性の確認をお願いしたところ、数日後に矢張りエラーでは無く、私が二度注文したとしか考えられないとのことであった。
客観的に考えると、私が二度ネットで注文をし決済も済ませており、その事実を私がしっかり記憶していなかったということになる。何かを思い出せないというという老化に伴う記憶低下では無く、何かをしたことを全く忘れてしまっているというアルツハイマーの症状のようで、ぞっとした気分になる。でも、これ以外にはこれと言って似たような問題は発生していない。そう考えると、手元にある文庫本「東京奇談集」のことが気味悪く思われてきた。まさかね…。

東京奇談集:ハナレイ・ベイ

「東京奇談集」を文庫本で買い読み返している。以前単行本で購入し一度読んでいることは間違いない。でも内容をスッポリと忘れている。結構ショックだ。

最初の「偶然の旅人」は酷く嫌な心持ちになった。こんな文章を以前の自分は好んで読んでいたのかと思うと恥ずかしくなった。

次の「ハナレイ・ベイ」は悪く無い、いや結構いい。この違いはなんだろね?

箕輪城と金山城

6月最後の日曜日、箕輪城金山城に登城、スタンプゲット。

箕輪城は駐車場が突出して立派ではあるが、城そのものの整備はまだこれからという感じ。あちらこちらが工事中であったが、駐車場から左手に回り一旦下った後に別方向から登城。今度は左手に回って駐車場に戻る。

スタンプは、城から少し離れたところにある高崎市箕郷支所の右手奥にある休日用出入口でゲット。

次に、金山城に向かう。4−5年前に一度来たことがあるが、前回とは違う方向からアプローチしたようだ。前回は車を止めた後、結構上り坂を登って行ったが、今回は一番上にある駐車場まで直行、尾根道を少し登って城跡にアプローチ。しっかり整備され、立派な石垣が残っている。

モサド・ファイル

原題は、MOSAD, the greatest missions of the Israeli secret service

邦訳で500頁の割と分厚い本である。今、389頁まで読んだところであるが、正直気持ちが悪くなり始めている。イスラエルという国の成り立ちからある程度はしょうがないのかもしれないが、モサドという組織そしてそれを存在させているイスラエルという国の指導者の基本的なものの考え方は狂気に置かされているのではないかと考えざるを得ない。凶器でなければ、唯我独尊と言い換えても良いかもしれない。自分たちの存在、大義のためには、よその国の主権を平気で犯し、過去の犯罪に対して裁判も何もなく殺しまくり、またそのために多くのスパイを使ってそのスパイとスパイの家族の人生をめちゃめちゃにしている。嗚呼!

安全保障

安全保障関連法案をめぐる国会論戦、共産党の志位委員長に安倍総理がズタボロにされているらしい。まあそうだろうと思う。ただ、根本的な問題は、安倍さんがいつものように、真正面から問題を提示し、問題のポイントを真摯に議論することなく、モノゴトを進めてしまおうといういつものやり方にある。もちろんこれは昨年末の選挙で安倍さんを方してしまった日本の有権者に責任があるのだが、安倍さんはそこでも選挙戦でのテーマは「アベノミクス」として、真の議論をする場を摘み取ってしまった。こんな人を選挙で勝たせてしまうとは、悔しいがこれがフェアな選挙の結果なのだ。
さて安全保障関連法案をめぐる真正面からの議論とは何か?私が思うに、法律議論を始める前にやるべき議論があるのだ。戦争放棄を明確に記した現行憲法が施工されたのが1947年。しかしながら、僅か数年後には、1961年のサンフランシスコ平和条約締結と同時期に締結された日米安全保障条約(旧日米安保条約)締結、警察予備隊(現自衛隊)設立と、現行憲法と大きな矛盾をはらむ方向転換がなされた。今までは、アメリカの軍事力、経済力が圧倒的であり、日米安保における日本及び自衛隊の役割は極めて限定的なもので済み、何とか現行憲法と折り合いを付けながらやってきた。しかしながら状況・環境は変わる。日米安保の枠組みで、日本及び自衛隊は今までのパッシブな役割から、アクティブな役割を求められてきているのだ。誰から?もちろんアメリカ合衆国からだ。
これにどうこたえるのか、国民的議論が必要だと私は思う。安全保障関連法案の細かい議論をするのではなく、アメリカとの同盟を続けるため、戦力を保持しするため、その為に現行憲法を改訂するのか否かという議論だ。この議論を国会、論壇、マスコミ等でやってくれれば、国民の理解が深まり、私自身の意見もぼんやりとしたものからソリッドなものになると期待する。今の時点では極めてあいまいな意見しか持ちえないでいる。それは、実効性の希薄な国連主義から離れ、実際に力を持ち、隣国であるアメリカ、中国、ロシア、韓国との間で条約を結び、日本が永世中立国となる道だ。これが非現実的なのか否か良く分からない。だからこそきっちりとした議論を国会という最高のレベルで戦わせてほしい。